1983年、7人組アイドル・ポップバンドのチェッカーズのボーカルとしてデビューしたフミヤ。2枚目のシングル「涙のリクエスト」でブレイクし、スターダムを駆け上がっていったチェッカーズを、サウンド面で支えていたのが作曲家・プロデューサーの芹澤廣明氏と作詞家・売野雅勇氏の黄金コンビだ。チェックの衣装を身にまとい、個性的な髪型、そして何よりも聴きやすいポップなラブソングを次々とリリースし、歌だけでなく、髪型・衣装をまねする若者たちによって「チェッカーズ」は社会現象になった。
86年発売の「NANA」以降は、メンバーのオリジナル楽曲で活動するが、やがて各メンバーの音楽に対する方向性の違いが生じ、1992年12月31日の『第43回NHK紅白歌合戦』出場を最後にチェッカーズは解散。翌93年、フミヤは「TRUE LOVE」でソロデビュー。この曲は200万枚以上の大ヒットとなる。そして、現在もソロアーティストとして第一線で活動を続け、数々の名曲を生み出している。
実は、ソロになってからのフミヤは、自身のコンサートでも芹澤&売野両氏が手掛けた楽曲を歌うことがほぼなかった。それを、昨年11月から開催しているコンサートツアー『ACTION』で“解禁”。チェッカーズ初期の代表曲を披露する初めてのコンサートとなった。さらに、昨年12月にフジテレビ系で放送された『FNS歌謡祭』で、チェッカーズの「星屑のステージ」と「ジュリアに傷心」を歌い、大きな話題となった。そして、今夜放送の番組では、「ギザギザハートの子守唄」や、NHKでは初歌唱となる「NANA」(1986年発売当時、歌詞が問題視されて放送禁止になっていた)など、チェッカーズ曲を多数披露する。
“封印”を解いた理由、そもそもなぜ“封印”していたのか。
フミヤは「音楽的な理由が一つあって、芹澤先生たちが作ってくださった初期の楽曲は強力すぎた。ソロになってからの楽曲となじまない気がしたというのもあったし、解散してさ、俺だけがチェッカーズのヒット曲を歌ってビジネスするのも、どうかなって思っているうちに、封印って感じになった。歌おうと思ったきっかけはやっぱりコロナ禍だよね。最初の緊急事態宣言でコンサートができなくなって、ほぼ無職になって。SNSでチェッカーズの曲を歌った動画をアップしたらけっこう評判よくて。もう、何があるかわらないじゃない? 歌えるなら、歌っていこう、と思ったんだよね」。
29年ぶりにテレビで披露することとなった「ギザギザハートの子守唄」は、「この歳になって歌うとちょうどいいよね、逆に。しっくりくる(笑)」と感想を漏らしていたフミヤ。自身も20代で、音楽番組も華やかなりし頃、歌いまくったチェッカーズ初期の名曲たちは「練習しなくても歌える。身体に染み付いている」と、今回の収録でも1発OK連発の熱唱に次ぐ熱唱。
番組では、“封印”してきた楽曲を作った芹澤・売野両氏とフミヤの3人がテレビで初めて顔をそろえてトークする、まさに“激レア!”な企画も実現。さらに、“芸能界の大親友”と慕う木梨憲武が時々ナビゲーター時々歌い手、そして大地真央がスペシャルゲストとして登場。親しい二人だからこそ知る、フミヤの意外なエピソードも次々と暴露(?)。フミヤと実弟であり、ともに作品を作り続けてきた“同士”でもある藤井尚之もステージに登場。息のあったパフォーマンスを披露する。まさに藤井フミヤの音楽人生を振り返る集大成の番組となっている。
藤井フミヤ、チェッカーズ初期の名曲なぜ“封印”? コロナ禍で解禁した理由 - ORICON NEWS
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