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Thursday, November 3, 2022

「ハワイと沖縄の架け橋」44年間邦字紙発行 移民1世の生活記録した”歴史資料” - HUB沖縄

「ハワイ・パシフィック・プラス」の最終号を手に、思い出を語る仲嶺和男さん=10月14日、那覇市内

 近年まで、44年間に渡りハワイ州ホノルル市で発刊されていた日系人向けの邦字・英字新聞がある。その名も「HAWAII PACIFIC PRESS(ハワイ・パシフィック・プレス/HPP)」。1977年11月~2020年12月まで月1回、もしくは月2回のペースで発行され、ピーク時には毎号5,000部を売り上げた。

 単身創刊し、編集発行人を務めたのは沖縄出身の仲嶺和男さん(82)だ。のちに日系人全体向けの新聞に変容していったが、創刊当初に掲げたテーマは「ハワイと沖縄の架け橋」。100年以上前に沖縄からハワイに渡った移民1世にもインタビューを重ね、当時の生活ぶりを記録した貴重な”歴史資料”でもある。どのような経緯で発行を始め、何を報じてきたのか。今年5月に沖縄へ居を戻した仲嶺さんに話を聞いた。

琉球新報の記者を経て渡米

 国頭村宜名真出身の仲嶺さん。小学生の頃から地理の授業が好きで「移民に憧れた」という。もう一つ好きだったのは、新聞。「世界を股にかけて活躍してる新聞記者には非常に魅力を感じた」。那覇高校を卒業後、琉球大学文理学部に進み、学生にジャーナリズムを教えていた後の県知事である故大田昌秀氏が発行した琉大タイムスを共に作った。

 卒業後は琉球新報社へ。社会部や文化部などで記者を6年間経験したが、当時は社内ストライキも多く将来に不安を感じたこともあり、退職して一念発起。一時親戚が経営する会社に務めた後、当時ベストセラーになっていた作家・小田実の世界放浪記「何でも見てやろう」に影響を受け、再就職前に「アメリカを見て回ろう」と500ドルを手にハワイへ渡った。

 日本語教師やレストランの皿洗いなどで生計を立てた後、日本語新聞「ハワイ・タイムス」に入社し、5年間務めた。1900年に沖縄初の海外移民として26人が海を渡り、沖縄県系人のコミュニティが根付いているハワイ。記者活動をしながら現地の沖縄関係者とも交流を深める中、当時米国でベストセラーとなっていた移民を題材にした小説「ルーツ」に触発され、「自分も沖縄出身者のために何かやってみよう」と思い立ち、新聞業での独立を決意した。

創刊号で「沖縄特集」好評博す

ホノルル市にあるワイキキビーチ

 ビジネス的に勝算もあった。1958年に創刊された沖縄の歴史ある写真月刊誌「オキナワグラフ」が沖縄からの輸送費も含めて高額にも関わらず、当時毎号100部ほどが売れていて、「私がより安値で沖縄の新聞を作ったら500部は売れるんじゃないか」と算段を付けた。現地で自分達のことを「ウチナーンチュ」と呼ぶ移民2世にも出会い、「沖縄に対してそれだけの思いを持っているのか」と驚くこともあったという。

 資金は母と妹から1,000ドルずつを借りた。「沖縄とハワイの架け橋」をテーマに掲げ、自身の38歳の誕生日である1977年11月30日、ホノルル市を拠点にハワイ・パシフィック・プレスを創刊した。

 当時の沖縄は、1972年の日本復帰からまだ5年。ハワイ県系人の間でも沖縄に対する関心は高く、16ページの特集で「沖縄の今」を伝えた創刊号は好評を博した。「毎日のように25部ずつくらいの購読注文がありましたよ」と、当初の目標であった500部は創刊から2、3カ月にして達成。母と妹から借りた資金に手を付けることもなかったという。

 初めの数年は取材、執筆、校正、広告の獲得など全てを一人でこなした。風邪を引いた時はベッドに寝転びながら校正作業をしたり、沖縄関係だけでも数十ある郷友会の新年会に一晩で5、6カ所回ったりと、目の回るような日々を休みなくこなした。

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